「お父さんは心配性」という漫画を知りませんか。
一人娘を心配するあまり数々の異常な行動に出るお父さんを主人公にした一昔前のギャグマンガです。
娘はお父さんの行動を迷惑に思うものの、最後には、お父さんは私を心から愛してくれてるんだ、とホロっとするわけです。
さて、実際はどうなのでしょうか。
私自身の経験を交えながら心配は愛なのかを検証しつつ、信頼ベースで子どもを愛する3ステップをお伝えしたいと思います。
この記事の目次
心配性は愛なのか、私の経験
さて心配性は愛なのでしょうか。
私の経験を語りながら検証していきましょう。
私の母の心配性
私の母はかなりの心配性でした。
特に健康面に対しての心配がすごかったです。
寒い=病気になる=やばい!!!
疲れる=病気になる=やばい!!!
単純に言うと、そんな思考回路でした。
冬には何枚もの下着を着せられたり、使い捨てホッカイロをあちこちに貼られました。
私が寝冷えしないよう、布団の隅をベッドの角を縛り付け布団を動かなくしたり、縫って寝袋のようにした毛布で寝させられました。
暑くても布団をはぐことができず、辛かったのを覚えています。
また、外に遊びに行くのが大好きだったのですが、風邪を引くから疲れるからと、ほとんど毎回遊びに行くのを反対しました。
母の心配に対し、私が反発したり嫌な顔をしたりすると、「お母さんはあなたのためを思って言ってるのに」と悲しい顔をされたり、怒られたりしました。
母が心配して止めるのも聞かずに遊びに行って、風邪を引こうものなら、「ほら、お母さんの言うことを聞かないからこんな目に合うのよ。」と勝ち誇ったように繰り返し言われました。
引き裂かれた子ども時代
母に心配されながら、幼いころの私の心の中は引き裂かれていました。
(どうしてお母さんは自分の心配で私を縛るんだろう?)
(どうしてお母さんは心配ばかりして、そんなに辛そうなんだろう?)
(どうして私はお母さんが心配して言ってくれてるのに、反発ばかりしてしまうんだろう?)
また母に心配ばかりさせる自分が嫌いでした。
自分が悪いから、母が心配する、そして母を疲れさせるんだと思ってました。
でも一つの心配事が解消されても、残念ながら母は、次から次へと私の中から心配事を見つけてくるのです。
私の心配性と子育て
そうやって母に心配されて育った私は、私自身も心配性になっていきました。
寒いと風邪を引くからと心配し、スカートは滅多にはかない。
私は体が弱いから疲れたらヤバいと心配し、行動を制限する。
自分が感じることよりも母の言うことが正しいと思い込まされてきたので、自分がすることはなんとなく間違っているような感覚に襲われ、何かにつけて「これで大丈夫なんだろうか」と心配していました。
そんな私が息子を出産し、子育てをスタート。
子育てにおいて私の心配性が最初にさく裂したのは、赤ちゃんだった息子の頭のことでした。
息子の頭のカタチが歪んでいたのです。
このままでは頭の歪みが体が歪みになってとんでもないことになると心配し、歪みを取るというマッサージを受けさせに何度も飛行機にのったり、寝ている息子の頭の位置をしょっちゅう気にして動かしてました。
次に心配になったのは、息子の皮膚症状。
汗もがひどく、汗もが広がる度にイライラしていました。
そんなふうに、次から次へと些細なことが気になって心配になっていたりしていました。
そんなことを繰り返しているうちに気づいたのです。
心配しているときの私は、今ここにいる息子を見ていない。
息子に対するネガティブなイメージを脳内で作り上げ(例えば、頭が歪んでいることで、体全体が歪んでしまって、学習や運動に支障をしたしている息子)、その脳内イメージをあたかも現実のように思い込み、心配しているんだ、と。
心配は愛とも言えるし、愛とも言えない
その時、母も私自身を見てくれていたわけではなく、母の脳内にある私のカタチをしたネガティブなイメージを見ていたのかもしれない、と感じました。
私自身を見てくれていたなら、その時の私の状態を見て、元気そうだとか元気がなさそうだ、と判断して、今日は遊びに行って大丈夫、今日は行かない方がいいかも、と対応が変わっていたと思います。
でも、毎回ほとんど変わらずに、「風邪を引くから遊びに行くのを止めた方がいい」だったのです。
母は一生懸命、私を愛してくれたとは思います。
でもそれは主に、母の脳内にいる私に対してであって、目の前にいる私に対してじゃない。
だから愛されているはずなのに、愛されている感覚がなかったのかもしれません。
母のズレた愛は、私の私自身に対する信頼をどんどん失わせていきました。
子どもをどんな風に愛したいのか
結局は何が正しくて何が間違っている、というような線引きがあるわけではないと思います。
子どもに対する脳内のネガティブなイメージを愛するのか、目の前の子ども自身を愛するのか、どちらを選ぶのは自由。
大切なのは、主体的に選ぶことかもしれません。
脳内のネガティブなイメージを愛する、を違う言葉で表現すると、不安ベースで愛する、とも言えます。
親から不安ベースで愛されてきた人は、無意識に自分の子どもに対して同じように不安ベースで愛を表現してしまう傾向があるように思います。
子どもは親のしていることを無意識に学び、模倣する性質があるからです。
不安ベースで愛された子どもは、自己信頼感が育ちにくく、愛されている実感が持てないため、自己肯定感も低くなりやすい傾向にあります。
では、目の前の子ども自身を愛する、とはどういうことでしょうか。
過去でもない、未来でもない、今ここに意識を合わせ、子どもを愛することとも言えるかもしれません。
今ここに生きれば問題はなくなる、とよく言いますが、そうであるとしたら、目の前の子ども自身を愛するとは信頼ベースで愛する、とも表現できるかもしれません。
信頼ベースで愛された子どもは、親が自分自身を見てくれている安心感とともに育ち、自己信頼感・自己肯定感も高まりやすいでしょう。
不安ベースから信頼ベースで子どもを愛する3ステップ
では不安ベースで子どもを愛してきた人が、主体的に信頼ベースで子どもを愛するにはどうしていったらいいのでしょうか。
私の経験を例に挙げながら、不安ベースから信頼ベースで子どもを愛する3ステップをお伝えしましょう。
ステップ1 自分自身の脳内のネガティブイメージに気づく
今までは脳内のネガティブイメージを現実のように捉えていたところを、ネガティブイメージは自分自身で作り出しているもの、と気づくことが第一歩です。
私自身は、息子の頭の歪みが体の歪みにつながり、学習や運動能力に支障をきたすというネガティブなイメージは、私自身が勝手に作り出しているイメージということに気づくことから始めました。
でも気づいたからと言って、脳内の息子に対するネガティブイメージはそう簡単に消えるわけではありませんでした。
なぜなら、ネガティブイメージが現実のものとして感じられるような、怖れ、悲しみ、不安などの感情が湧き続けていたからです。
ステップ2 感情を感じる
ネガティブイメージにつきまとう感情が湧き続ける限り、ネガティブイメージはなかなか消えてくれません。
裏を返せば、もともと感情が先にあって、その感情を正当化するネガティブなイメージを作り出してしまうとも言えるのです。
道理で、母が次から次へと私の中から心配事を見つけ続けたわけです。
そこで、ネガティブイメージにつきまとう感情を感じることを続けました。
感情を感じることについては以下のページを参考にされてください。
ステップ3 信頼ベースのイメージも持っておく
感情を感じることにより感情は流れやすくなり、ネガティブなイメージが書き換えやすくなります。
そこで次は、信頼ベースだとどういうイメージが湧いてくるのか、意識を向けます。
私の場合、目の前の息子を見ながら、信頼ベースで彼の将来を感じると、このままでも何の問題もない元気な息子のイメージが湧いてきました。
ネガティブなイメージが湧いてくるたびに、信頼ベースのイメージも見るようにしていきました。
すると、徐々に心配より、この子は大丈夫、という気持ちの方が自然と強くなっていったのです。
ステップ1~3のその後
子どもへの心配が出るたびに、ステップ1~3を続けていると、子どもに対する感覚が磨かれてきます。
感情的に落ち着いているため、子どもをよく観察してできるようにもなります。
すると、子どもに必要なことを必要なタイミングでできるようになったり、必要じゃないタイミングでは優しく見守ることができます。
子どもは親が自分自身を見てくれて、信頼してくれていると実感できると、どんどんイキイキ輝いていきます。
そんな子どもを間近で感じることにより、親は自分自身に対する信頼感も深めていくでしょう。
まとめ
心配は愛なのか、愛ではないのか、その解釈は自由だと思います。
ただ私自身は、自分自身の子育てやクライアントさんの子育ての変化を通して、心配を愛だとして育った子どもよりも、心配と向き合いながら信頼ベースに移行していった親から育てられた子どもの方が、ずっとイキイキのびのび育っているように見えます。
さぁ、信頼ベースで子どもを愛することを意識してみませんか?
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